「あわてることはない」   03−07−27
               ルカ9:28〜36

 <ああ神の富と知恵と知識の何と深いことか。誰が神の定めを極めつくし、
神の道を理解つくせよう。>(ローマ11:33) 
 私たちは神さまのことを、ほんの一部しか知ることができません。しかし、だからと
言ってダメなのではありません。分からないからといって、神さまとの関係が断たれて
しまうことはありません。
 主イエスが、ある山の上で神さまの栄光に満たされた時、その場面に居合わせた
弟子たちは、最初「ひどく眠かった」と書かれています。主が栄光に輝いておられる
事にようやく気がつくと、今度は自分でも訳のわからないことを口にしました。
まったく情けない姿があります。
 ここに人間の姿があります。私たちの日常生活には、神さま抜きにはありえない
事柄があふれていますが、眠っているかのように、それに気づかないことが多いの
です。それを喜べず、感謝できないならば、ひどく眠くて栄光の輝きが見えていない
弟子たちと同じです。また、私たちも、弟子のように、神さまに対してずいぶん的外れ
なことを言っているに違いありません。
 しかし、大事なことは、主は、その情けない弟子たちの前で神の栄光に輝き、
その後も弟子たちのところにとどまっておられたということです。輝くのをお止めになり、
立ち去ってしまうのではありませんでした。
 この時の出来事は、弟子たちにとって恥ずかしい記憶ではなく、うれしい記憶です。
自分の情けなさや、無理解に嘆きそうな時に「それでも主は輝き、立ち去られは
しなかった」ことを思い起こし、励まされ、力づけられる恵みの出来事だからです。
 ただし、情けないことが良いのではありません。弟子たちに「主に聞きなさい」と、
天からの声が響きました。私たちで言えば、御言葉に聞くことです。
また、
祈るために山に登った時のことですから、祈ることが示されています。
 そうやって、より神さまのことを知り、恵みに気付ける信仰へと成長させて
いただけます。そこに、感謝と喜びに生きる道が開かれていきます。